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屈原 「漁父辞」 現代語訳

6月 19, 2014 by kanbunjuku // コメントは受け付けていません。

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訳:蓬田(よもぎた)修一

<現代語訳>

漁父の辞
屈原

屈原はすでに(罪を得て)遠地に流され、川のほとりを旅し、歩きながら沢のほとりでうたを口ずさんでいた。
顔色はやつれ、姿形はやせこけている。
漁夫は(屈原を)見かけると、屈原にたずねて言った。
「あなたは三閭大夫ではありませんか。
どうしてここに来られたのですか。」
屈原は言った。
「世の中はすべて濁っているのに、私ひとりだけが清らかである。
多くの人は酔っているのに、私ひとりだけが醒めている。
それ故に(罪を得て)遠地に流されたのだ。」
漁夫が言った。
「聖人は物ごとにこだわらず、世の中とともに推移することができるものです。
世の中の人が皆濁っているなら、なぜ泥をかきまぜて水を濁らせ、その濁った波をあげないのですか(=濁った世の中の人たちと同調しないのですか)。
多くの人たちが皆酔っているなら、なぜその酒のしぼりかすを食べ、その薄酒をすすらないのですか(=世の中の人ほどは酔わないまでも、わずかでも酔って同調しないのですか)。
なぜ深く考え、孤高を保ち、自分から遠方へ流されるのですか。」
屈原は言った。
「私はこういうことを聞いている。
『髪を洗ったばかりの者は必ず冠のちりを払い(=ちりを払ってからかぶり)、からだを洗ったばかりの者は必ず着物を振るものだ(振ってから着るものだ)』と。
どうして潔白な身に、汚れた物を受けることができようか。
たとえ湘江へ行き、川に住む魚の腹の中に葬らようとも、どうして潔白な身に、世俗の塵やほこりをこうむることができようか。」
漁夫はにっこりと笑い(屈原の潔い気持ちに好意を表し)、かいを音高く鳴らして去って行った。
そうしてこう歌った。

滄浪の水が澄めば 自分の冠のひもを洗うのがいい
滄浪の水が濁れば 自分の足を洗うのがいい

そのまま去って行き、二度と屈原とは言葉を交わさなかった。
(古文真宝)

<書き下し>

漁父(ぎよほ)の辞(じ)
屈原

屈原既に放たれて、江潭(かうたん)に遊び、行(ゆくゆく)沢畔に吟ず。
顔色憔悴(せうすい)し、形容枯槁(こかう)せり。
漁父見て之(これ)に問ひて曰はく、
「子は三閭(さんりよ)大夫に非(あら)ずや。
何の故に斯(ここ)に至れる。」と。
屈原曰はく、
「世を挙げて皆濁れるに、我独(ひと)り清(す)めり。
衆人皆酔へるに、我独り醒(さ)めたり。
是(ここ)を以(もつ)て放たる。」と。
漁父曰はく、
「聖人は物に凝滞せずして、能(よ)く世と推移す。
世人皆濁らば、何ぞ其の泥を淈(にご)して、其の波を揚げざる。
衆人皆酔はば、何ぞ其の糟(かす)を餔(くら)ひて、其の醨(しる)を歠(すす)らざる。
何の故に深く思ひ高く挙がり、自ら放たしむるを為(な)すや。」と。
屈原曰はく、
「吾之を聞けり。
『新たに沐(もく)する者は必ず冠を弾(はじ)き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ。』と。
安(いづ)くんぞ能く身の察察たるを以て、物の汶汶(もんもん)たる者を受けんや。
寧(むし)ろ湘流(しやうりう)に赴きて、江魚の腹中に葬らるとも、安くんぞ能く皓皓(かうかう)の白きを以てして、世俗の塵埃(ぢんあい)を蒙(かうむ)らん。」と。
漁父莞爾(くわんじ)として笑ひ、枻(えい)を鼓して去る。
乃(すなは)ち歌ひて曰はく、

滄浪(さうらう)の水清まば 以て吾(わ)が纓(えい)を濯(あら)ふべし
滄浪の水濁らば 以て吾が足を濯ふべし

遂(つひ)に去りて復(ま)た与(とも)に言はず。
(古文真宝)

<漢文>

漁父辞
屈原

屈原既放、遊於江潭、行吟沢畔。
顔色憔悴、形容枯槁。
漁父見而問之曰、
「子非三閭大夫与。
何故至於斯。」
屈原曰、
「挙世皆濁、我独清。
衆人皆酔、我独醒。
是以見放。」
漁父曰、
「聖人不凝滞於物、而能与世推移。
世人皆濁、何不淈其泥、而揚其波。
衆人皆酔、何不餔其糟、而歠其醨。
何故深思高挙、自令放為。」
屈原曰、
「吾聞之。
『新沐者必弾冠、新浴者必振衣。』
安能以身之察察、受物汶汶者乎。
寧赴湘流、葬於江魚之腹中、安能以皓皓之白、而蒙世俗之塵埃乎。」
漁父莞爾而笑、鼓枻而去。
乃歌曰、

滄浪之水清兮 可以濯吾纓
滄浪之水濁兮 可以濯吾足

遂去不復与言。
(古文真宝)



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